コピーライターの左ポケット

左のポケットからは
思いがけないものがでてきます
役に立たないけれど捨てられない
自分にだけたいせつなものです

「コピーライターの左ポケット」は
RADIO BERRY-76.4☆FM栃木の
日曜日22時からの番組「柴草玲のイヌラジ」の
小さなコーナーでした
コピーライターがストーリーを書き
柴草玲さんが音楽をつけながら朗読をしてくださり
5年の長きにわたって続けることができました
番組の最終回は2015年3月29日でした
お聴きくださった皆さま、このサイトを訪問してくださった皆さま
ありがとうございました

なお、原稿と音声のみをご覧になりたいかたは
裏ポケットへどうぞ ↓
http://02pk.seesaa.net/



2010年10月06日

紅葉を楽しむ温泉


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山の紅葉は早いのでご注意ください。
日光湯ノ湖あたりは10月半ばともなると
紅葉はピーク、または盛りを過ぎたかという進展具合です。

奥日光湯元温泉は、いろは坂をくねくねと登り
中禅寺湖から戦場ヶ原を過ぎてさらに進んだ湯ノ湖のほとりにあります。
湖と山にかこまれた静かな温泉です。
泉質は硫化水素水。硫黄の匂いがちょっとします。

山の紅葉は鮮やかですが見ごろは短く
散るのも早いです。
11月はもう雪が降ります。

でも、ご安心ください。
標高による季節の時差があるので
湯ノ湖の紅葉が終わっても、いろは坂はまだ見ごろです。

奥日光湯元温泉協同組合のサイト:http://www.nikkoyumoto.com/

惜しいかな、ピークを過ぎた紅葉ですが下の動画で見られます。




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2010年09月29日

那須温泉郷のはじめ

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那須で温泉が発見されたのは
ものの本によると630年となっている。
なぜ630年という数字が出てきたかというと
平安中期に編纂された延喜式神名帳という、
ああ、延喜式などといっても誰もご存じないだろうけれど
その延喜式神名帳という神社の戸籍謄本のようなものに
那須の温泉神社の創建が630年と書いてあるからだ。
温泉が出たから温泉神社ができたと考えるのは順当だろうと思う。

その温泉を発見した人は狩野三郎行広という狩人だというが
マタギにしては立派な名前だと疑ってよくよく調べてみると
どうやら狩野三郎行広さんは郡司という役職の地方官だったらしいのだ。
つまり、中央から派遣される国司の下で仕事をする地方の豪族だ。
で、まあこのサブちゃんが田畑を荒らす白い鹿を射止めようとするのだが
鹿は傷を負っても負ってもすぐに元気になってまた悪さをする。
シジフォスの神話の狩人版みたいなことで
サブちゃんもいいかげんうんざりしただろうけれど、
それでもめげずに白鹿を追って山中に迷い込んだ。
すると白髪の老人があらわれ、鹿はいま温泉に入っているから
そこを狙って射よと教えた。
サブちゃんこと狩野三郎行広は、そこでハッタと気づいた。
ただいまの老人は神の化身に違いない…
どうせなら美女に化身してもらいたいものだが
サブちゃんは文句も言わず、その地に温泉を開き、那須温泉神社を建立。

その後、誰ぞPRのうまい人がいたらしく
那須温泉の名は遠く離れた都にも聞こえ
100年後には中央の官僚が湯治に来るまで有名になったのだった。

ところで、今週は社長が毎日ブログを更新するといっているので
お楽しみにね(さ)

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2010年09月21日

那須の紅葉はえらい早い

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山の紅葉が早いのはわかりきったことだが
那須温泉の場合は「もうすぐ」どころではない、「いままさに」だ。
那須岳の麓に位置する紅葉スポット姥ヶ平では
9月下旬に色づきはじめ、10月上旬に見ごろを迎える。

えらいことだ。
いますぐ宿を予約しないと間に合わない。
泊まるところがなくても那須は日帰り温泉がたくさんあるので
お湯につかることはできるけど。

那須温泉の歴史は古く、
630年に狩人が傷ついた鹿が温泉に入るのを見て発見したと伝えられる。
この鹿の湯は現在も営業しているが、日帰り温泉で宿泊はできない。
ただし鹿の湯を源泉とする宿は10軒あまりあるようだ。

鹿の湯を始祖として開かれた那須温泉は明治には七湯が揃い
泉質や効能がそれぞれ違うので
湯めぐりの楽しみが存分に味わえる。

鹿の湯:http://motoyu-shikanoyu.com/

*下は那須の紅葉の動画です
タグ:那須温泉
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2010年06月11日

奥鬼怒温泉郷のお湯くらべ

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●手白澤温泉
硫黄単純泉 52℃ 毎分300リットル(自然湧出)
もちろん源泉かけ流し
源泉はこの宿だけで使うので湯量が豊富
宿の上には山しかないのでお湯がキレイ

● 加仁湯(湯温は気温22℃のとき)
1、 炭酸水素塩温泉(含硫黄)46.5℃ 毎分126リットル(汲み上げ)
2、 炭酸水素塩温泉(含硫黄)45.9℃ 毎分32.4リットル(掘削自噴)
3、 塩化物温泉(含硫黄)63.7℃ 毎分108リットル(汲み上げ)
4、 炭酸水素塩温泉(含硫黄)58℃ 毎分58リットル(掘削自噴)
5、 炭酸水素塩温泉 50℃ 毎分0.8リットル(掘削自噴)

●八丁の湯(湯温は気温5℃のとき)
1、 単純温泉 49.8℃ 毎分16.7リットル(自然湧出)
2、 単純温泉 51℃ 毎分60リットル(自然湧出)
3、 単純温泉 51℃ 毎分60リットル(自然湧出)
4、 単純温泉 52.4℃ 毎分40.7リットル(自然湧出)
5、 単純温泉 51℃ 毎分60リットル(自然湧出)
7、単純温泉 52.3℃ 毎分70リットル(自然湧出)

八丁湯の温泉は敷地内の8カ所の山肌から自然湧出しているが
6号と8号は使用していない。
源泉かけ流し

● 日光沢温泉
いくつかある湯船に塩化物泉、含硫黄塩化物泉などを
混合して使っているらしい。
無色透明のお湯やら濁ったお湯がある。温度は高い。
泉質の評価は最高だが、温泉宿ではなく山小屋。


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2010年05月01日

秘境の温泉 奥鬼怒

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奥鬼怒温泉郷には4つの温泉がある。
加仁湯、八丁湯、日光沢温泉、手白澤温泉。
すべて一軒宿で、マイカーでは行けない。
加仁湯と八丁湯は麓の女夫渕温泉まで送迎バスが迎えに来るが
その女夫渕温泉までが、鬼怒川温泉駅からバスで100分かかる。
バスは一日に4便運行している。
どうしてもマイカーという場合は、女夫渕温泉の
市営無料駐車場に車を置いて歩くか送迎バスに乗る。
送迎のないところに関しては
完全予約制の地元タクシーが1社だけ通行を許可されているが
歩くのが困難な人のためのようだ。

このアクセス方法を読んだだけでうんざりする人が多いと思う。
そうなのだ、奥鬼怒温泉郷は関東の最後の秘境といわれている。
秘境=不便な場所である。
だいたいが山の中だし、1993年にスーパー林道は開通したものの
地元住民以外の車の通行は基本的に禁止されている。
せっかくの「秘境」なのだから、気候がいいときは
歩いてみたらどうだろうか。
たとえば女夫渕温泉からいちばん遠い手白澤温泉までが6km。
歩くとおよそ150分かかる。
スーパー林道を歩くよりは
渓谷に沿った木漏れ日の遊歩道をトレッキングするのがいい。

世の中には秘境好きが多いらしく、奥鬼怒温泉郷は人気がある。
送迎のある加仁湯と八丁湯は
休日や祭日の予約はかなり早くからでないとむづかしい。
送迎のない手白澤温泉もゴールデンウイークと5月の週末はすでに満室だ。
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2010年04月19日

川俣温泉には間欠泉があって

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川俣温泉には間欠泉があって
その間欠泉はおよそ50分間隔でお湯を吹き上げる。
噴泉橋というバス亭からすぐの展望台には
「あと何分」という表示があるので
観光客はそれを目安に待てばいいわけだが
50分というのは、噴出直後に来た人でも待ちくたびれない
程のよい間隔だと思う。
間欠泉は高さ15メートル、30秒ほど吹き上がっているが
噴出の前触れというものは何もないので
よそ見をしているうちにシャッターチャンスを逃す観光客も多いそうだ。
今度こそとカメラを向けていても50分程度ならば
どうにかがんばれそうな気がする。

ところで、間欠泉が吹き上がる原因は
実のところよくわかっていないのだそうが
ひとつだけ確かなことは
歳月がたつと間欠泉は噴出をやめてしまうということだ。
実際、川俣温泉の間欠泉も昔は20分から30分間隔だったが
ちょうど21世紀になった頃から50分間隔になったらしい。


川俣温泉案内
http://travel.biglobe.ne.jp/onsen/spot/10902.html

http://www.mmjp.or.jp/kuriyama/furo02.html

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2010年03月18日

渓谷の川俣温泉

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川俣温泉は湯西川温泉の同族だ。
もともとは栗山村だったところだ。
栗山村の温泉はほかに奥鬼怒温泉郷がある。
奥鬼怒温泉郷には「八丁の湯」「加仁湯」
「日光沢温泉」「手白沢温泉」の4つの温泉がある。
栗山村は相当に広域にわたっているが
ほとんどが山であり渓谷である。

川俣ダムによってつくられた人造湖川俣湖から
数キロのところに川俣温泉はある。
鬼怒川沿いの渓谷の温泉だが、標高は1000メートルを超え
春の訪れはやはり遅い。

川俣温泉もまた湯西川と同じく開湯に関する平家伝説があったが
その信憑性が問われて以来、南朝の遺臣に変わった。
確かにこの温泉は人目を忍ぶひそやかなたたずまいで
平氏や南朝の遺臣が隠れるにふさわしいといえるだろうけれど
そんな人々がいなくても、いい温泉であることに変わりはない。

川俣温泉が温泉として知られるようになったのは戦後のことで
江戸時代から川俣温泉の湯守りだった清湧館が
旅館として創業をはじめたのが明治になってのことである。
昔はこの山深い土地でマタギや山仕事をする人々が
住み着いていたのだろう。
この土地に伝わる元服式は無形民俗文化財に指定されているが
男子の成人の儀式に後見人を頼んで仮の親子関係を結ぶという
その風習こそ、土地を開き村を形成し
その共同体を維持してきた人々の知恵にほかならない。



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2010年03月12日

湯西川温泉の雪解け

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4月末でも山には残雪が見られる湯西川では
うっかり見過ごした早春の美しさを
春のゴールデンウイークに楽しめます。

その頃にはちょうど桜も咲きます。
山では木々が芽吹いてもやもやと霞のようです。
ほんのときたま
桜の時期に雪が降ることもあります。
そんなときこそ、温泉のあたたかさが身にしみます。

栃木にはいい温泉があります。
タグ:湯西川温泉
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2010年03月04日

湯西川温泉の焼畑

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湯西川温泉の宿では稗の入ったご飯が食べられる。
この稗こそ、かつての湯西川の主食だった…というよりも
昔の日本人の主食だったといってもいい。
日本人が米ばかり食べるようになったのは実は昭和になってからで
米の自給率が100%になったのがやっと1966年だが
米を食べることを目標とするあまり
稗のような賢い食物が忘れられてしまった。

稗は米よりも栄養価が高く
ビタミンやカルシウムなども多く含む健康食品で
ことに米のできない山里の暮らしにはなくてはならない穀物だった。

湯西川の春は遅く、冬のはじまりは早い。
さらに川は谷川であり、深いところを流れているために水の便が悪かった。
米はできず、畑で稗や粟、麦、豆、蕎麦などをつくっていた。
家のまわりの土地を畑にし、
それでも村全体の食料には足りずに山で焼畑農耕もおこなっていた。

焼畑は山の木を伐って、そのあとを焼き、灰を肥料にする。
焼畑には一般に周期があって
そこで3年くらい作物をつくるとまた木を生やしてもとの山にする。
ひとつの畑に植えつける作物は、土地の養分の都合だと思うが
毎年違っており、
日本で最後まで焼畑農業が残っていた山梨の山村を参考にすると
2年めには豆を植えていたようだ。
豆は窒素を固定するので豆を植えることによって土地を肥やし、
翌年の収穫を増やすのである。
こうして3年か4年ごとに畑を替えながら作物をつくり
16年周期くらいで最初の畑にもどってくる。
16年周期を一回休ませると樹齢32年の林ができ、
用材として用いることができる。
焼畑を「単に山を焼く」と勘違いする人は多いが
日本の焼畑はたいへん知恵のある合理的な農法だったのだ。

焼畑はなにしろ山中なので放っておくと猿やイノシシに荒らされる。
「枝村」という言葉があるのだが
これは夏になると村ごと焼畑のある山中に引っ越していって畑をつくり
収穫を終えるともとの村に戻るという、村の夏の出店(?)のような
ものを「枝村」といった。
小学校まで夏は「枝村」に引っ越すこともあったという。

食べ物はその土地の風土や歴史をあらわしている。
湯西川の稗の混ざったご飯をもし口にすることがあったら
稗は単なる代用食ではなく
かつての日本人の主食であり、また寒冷地や山里の人々の命を守ってきた
素晴らしい食べ物であることを思い出していただきたいと思う。


*下は稗の写真
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2010年02月10日

湯西川温泉の木杓子

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Photo by (c)Tomo.Yun

湯西川温泉の木杓子


平地がなく、米もできないような山里の生業は
おおざっぱに二種類に分けられる。
マタギと木地師である。
つまり猟師と木工の細工師である。

昔の湯西川にもマタギと木地師を兼ねている人々がいた。
木地師は木鉢や桶、箸などもつくっていたらしいが
なんといっても江戸時代から昭和まで
湯西川の経済を支えたのは木杓子だった。
湯西川の男子で木杓子がつくれないものはいないといわれた。
荷車の通れない山道は山の木を伐り出しても運ぶのが難儀であった。
人の背か馬の背で運ぶためには
軽い木工品にするしかなかったのだ。

その木杓子をつくるときも
山の木を伐り出してを家まで運ぶよりも
山に小屋を建て、泊まり込みで杓子をつくる方が早かったので
湯西川をとりまく山々の沢には杓子小屋ができた。
木杓子の材料はブナだったが、
村のブナをすべて杓子にしてしまい、適材がなくなると
会津の山にまで進出して杓子小屋をつくった。

数日に一度は仕上げた木杓子を背負って待ち合わせの場所へ行く。
そこで家からの食料を木杓子と交換して
また山へ戻っていったのだった。

そんな歴史と伝統のある木杓子であり
木杓子をつくり続けた村だったのだが、
ネットで調べていたらこんな記事があった。
大丈夫か、木杓子は(さ)

2008.3.26 
【日光】湯西川名産「木杓子」生産終了(下野新聞)
           
途絶える江戸からの伝統
今からでも後継者を。




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